見えない世界の不思議についてひたすら綴ります

カピパラ天国
友人がカピパラ好きだと言うので
写真で、カピパラ攻めにしようと思います。

場所は千葉・市原ぞうの国です。

一応ぞうのショーがメインの動物園で
「星になった少年」という映画にもなったので、ちょっと有名ですね。

ココ、タイからやってきた象使いさんのショーも凄いのですが
カピパラの数も凄いです。
おそらく、勝手にわんさか増えたのではないかと…

こんなです。


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寝てるカピさん



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あたしになでられるのなんて、余裕で無視のカピさん



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鴨などがいる池の真ん中、東屋のようなとこでくつろぐカピ



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ペリカンと暮らすカピ


このように、あらゆるところにカピは共存しています。
鳥を襲ったりしないのか、ほかの動物もまったく動じる様子はありません
触っても、なにしても、カピの姿勢を崩しません。

毛はぶっとくてごわっとしてます。
ヤギより毛が太いですね。

ちなみにぞうの国には、ライオンやシマウマ、キリンと色々揃ってますが
記憶に残るのはゾウとカピパラというなんとも不思議な動物園です。笑

最近の映画話
前に公開されていたツリー・オブ・ライフ
とってもスピリチュアルな顔をした映画でしたが
これは…私にはもう難解すぎました…

途中、延々と宇宙の創世から
人類が生まれ、主人公が誕生するまでを描いていますが
なんじゃこれは とフリーズ気味

ちょっと…

DVDが出てもおすすめできないというか
解読するのに時間がかかって素直に感動できなかったりします。
映像は美しかったのですが、もったいない。

で、わりとおすすめだったのがコレ
8ミニッツ

普通の娯楽映画っぽいのですが
ちょっと気になるところがあって、また見たいな~と思える映画でした。
量子の世界の話題を持ち出されると、見ずにはいられません。笑

死者に残されているとされる記憶の断片を
別の人間がアクセスして8分間だけ記憶をメモリーできるというお話です
記憶は記憶に過ぎないので、なにをしても現実から見れば過去は変化しない。
そういう設定なので、真実をつきとめるまで
何度もその場面に戻り、いわば体感つきのリーディングのようなことをします。

でも、ラストはそれだけでは終わらないのです

現実とそこに平行して存在する別の現実が
こうしてクロスしていったとき、現実は変化するのか?

なにかのきっかけで、平行する部分が崩れる可能性があるのではないか
そんな思い出せそうで、思い出せないような感覚を覚えます。

まあ、普通に娯楽としても凄く楽しめるのですが
見終わって、この感覚を覚える人もいると思います。

たしかに、歪んだ部分があり
そこになにかすると、こうしてクロスできたはずなのに
思い出せない。

今、私には無性に気になって仕方ない映画です。笑

サブパーソナリティが答えるとき
さて、先日の興味深いチャネリングシステムに引き続き
もう一つ書いておこうと思います。

サブパーソナリティ

セラピーを受けた事のある方なら聞いたことがあるかと思います。
自分の中にある自分の人格
行動パターンや、感情の数だけあるとも言われています。
インナーチャイルドなどは、幼少時の自分自身でしょうか。

特にヒプノセラピーなどでインナーチャイルドの癒しが行えるのは
わりと有名でしょうね。

自分の人格のひとつに焦点を当てて、会話をすることができるんです。
それは癒しにも使えれば…
別のことに変化していく時もあります。


今回は、サブパーソナリティとチャネリングについて。

最初はハイヤーセルフと話が出来ていることを確認したのですが
そのうち、ひとりで長いこと繰り返すうちに
「鑑定する自分」のような奇妙なパーソナリティとの会話になっていました。

なんといっていいのでしょうか
チャネリングするという工程の中にできたサブパーソナリティのようなもので

・高潔に見える
・語る言葉は抽象的であり、かつスピリチュアルに満ちたものである
・やさしく明るいメッセージに終始

ここまでは本当にハイヤーセルフのチャネリングと見分けがつきません。

でも、違う部分もあります。

それは、鑑定しているツールに頼った答えがベースになっていること
つまり、道具なしの占いができない場面においては
答えそのものは自分の「思ったこと」に終始します。

要は、鑑定しながら思ったこと・感じたことを
以前は自分の出した答えと認識していたはずが…
チャネリングを挟んでからは
「回答する自分」という変なパーソナリティとの会話になっており
脳内独り言のような状態になっていたのですね。

まあ、クライアントさんのためになるのであれば
究極的にはどう答えを出そうと構わないのでしょうけれど…
なにかをきっかけに病んでしまわないか、非常に微妙な状態とも言えると思います。

伊邪那美神
人の心に宿る影というは、
その者の成長に繋がる大きなきっかけが隠れるものであること…

自分自身で認めたくない、見たくない、触れたくはないなぞの
思いを持つ部分をひとまとめにして
そっと心の奥隅に取り置いたものと言えようなあ

それは一体何であるのかを見る勇気が出来た時
問題を解決する時期になったと言えよう。
準備のできぬうちは、辛くて目を向けることすら叶わぬものじゃが
己で育てきたものであれば、いつかは誰もが通る道よ
隠されてきた物事が明るみにでると
人は痛みを感じることになろうの

しかしなお、それを切り開き進んでいく者は
解決の方法も分かるはずよ…
この世に完璧なものなどはないように
あらゆるものはいびつで、歪んだ部分を持つ。
それが人としての味わいとなり、個性ともなる。

良い面は磨きをかけ、自身の心の整理をし
これからを見据えることじゃ

人いうは、たやすく安易な方向に流されていくものではあるが
心に決意を秘めたとき、無尽蔵の気力をしぼり
物事に向かうことができる
己のもった力以上の成果を求めることができような。
人の生きようとする力ほど強く、もろい物もないように見えるが
真の意味では、人の心は強いもの。

強く持った意思はそのまま魂と直結し
意思の強さに反映されゆく…
考えは、ただの考えであっては、結果はそれなり。
考えが意思となり、魂とも結びついた本人の意思となるとき
物事は自らが形を変えてゆくかのように
現実の物事も音を立てて、変わりゆく。

人の意思の強さは、己に向かう意思の力でもあること…

自身を試し、挑戦してゆきたいと思うのであれば
すでに心の暗部と対峙できるであろうの…

一歩一歩、歩を進め
人生を味わうもよいものよ

強者の理論
世の中で語られる理論には「強者の理論」が多いな、と思うことがあります。

自分がこれまで生きてきた中で
努力すれば報われることを知っている人
または、勝ち続けることが多かった人
勝つことで自分の価値観を培ってきた人…

その理論は、一般的な成功者にもありますし
鑑定士にもあるでしょうね

でも、人間そんなに強い人ばっかりではないのです
いつもいつも、そう思います。

たしかに強い人間ならば
苦境を越えていく力も、エネルギーもあるし
なにより「頑張ってみよう」と思えるだけの信頼を自分に持てるでしょう。

そういう人ばかりなら、それは正しいのかもしれません。

世の中には子どものときから苦労ばかりで期待しないで生きる人もいます
努力しても報われないことばかりで、成功できなかった人もいます

全ての人間に「強者の理論」は通用するわけがありません。

それを凄くもどかしく思うことがあるのです。
強い者は自分を正しいと思い、またそれは実際に正しいから誰も否定しません。
ただ、全ての人間に正しいということはないのですから。

強いものが、ノウハウとして意見を人に広めるのも必要だけれど、
本当に強くはなかったまま生きてきた人間が
自分ではいあがって、やっと掴んだ価値観を人にささやくのも必要でしょう。

私はどっちでもありませんけどね。笑

伊邪那美神
さてさて、人の世は一層にぎやかになりますが
人の心はすでに、昔と同じではなく新しい段階を見据えて
目に見える形で立て直しを行ってゆくことでしょう

新しく変わったと感じる時、人には生きる力も生まれ
心の中に創造する力も再び蘇るものです

物事を創造するというは、この世を作らしめた最も大きな原動力であり
人の持つ性であり、良い部となり得るもの…

生きる力は己の人生を創造する力といえましょうなあ

他の人の生きる様を見て、己はどうかと振り返ることができれば
その時点で、その人にも一人の人間に影響を与えられたことになり
一人、二人と広がるにつれて
皆、心の中に同じ疑問を抱くもの

その疑問が浮かんだときこそ、己の人生を改革してゆく時期がやってきたというもの…

己の安全を確保するばかりでなく
これから一人ひとりがどう生きてゆくかに着目する時期なのですから
ことさらに、今の自身を見
そこから動きゆくことを考えればなりませぬぞ

いましがたの出来事なぞ長い人生を見れば、あっと言う間のこと
日々、日常において起こる些細なことに気を使いすぎることはなく
より先の未来に目を向けて生きなされ
さすれば、その道のところどころで
行うべきことがしっかり見えるもの
そうして、人々の繁栄はあったのです

毎日のことではなく、先のことを常に考えることで
そこまでの過程が理解できれば
自身の今後もより良いものを考えられることでしょう

悲観する癖があれば、否定的な未来を望むも同じことなのですぞ
よいですか?

問題解決への道
色々なセッションを通して、ときどき聞いたことがあります。
こと、家系に掛かる霊的な問題や生まれ持った問題についてです。

例えば、問題を解決してもいい場合には
その人が適切な霊能者などに出会えるように
守護霊さんなどが手配してくださるそうなのです。
でも、よく聞くようになかなか出会えないという場合もありますよね。

それ、どうも
「解決してはいけない、または解決できない問題」らしいのです。

つまり問題といっしょに生きて、それを消化していかないと
相殺できない、ということみたいですね。

ご本人には大変なことと思いますが、最近でもまたそのケースに出会いました。

生まれ持った問題の原因は、本人の過去世。
過去世で、地位を利用して沢山の人間を殺してきた人が
相当の時間をかけて、今転生していたのです。
戦国時代から現在まで、なんという時間の長さでしょうか。
その期間、ずっと霊の世界で転生できるぐらいまで反省と学びをしてきたのでしょう。

その方は、今、小さな障害を持って生まれてきましたが
本人も周囲も気がついておらず、常に孤独
仕事もあまりうまくいってはおらず、お金もない。

それでも、懸命に生きて過去の精算をしているのだ、と守護霊さんはいいます。
だから助けなくていい、何もせずにそっとしてほしいのだと。

たぶん、問題に向き合うために相談をしようとしても
問題の原因を探せるタイプの人とは出会えないのでしょう。
守護霊さんは、そう言うのです。

理解する人も助ける人との出会も人生に用意されていないと。

…言葉がないって本当にこういう事を言うんでしょうね…

消えたDS
実は、全然ゲームをやらない私
なのでDSと3DSの違いすら知りませんが、DSにまつわる事件をひとつ。


今年の始め頃、知人のDSが消えました。

消えた場所は飲食店内。
隣の席に置いていたら、いつの間にか消えていたということで…。

お客さんが通過しない席だったことから、お客犯人説は消え
それでは店員?と思いつつも、みんな懸命に探してくれたことを思うと…
と、いうことで消えた理由が全く分からないというのです。

でも神隠しなわけはなく、絶対に因果はあるわけですよ。

ちょっと、あたし頑張ってみる!とばかりに物を追ってみます。
数回に分けて、なんども探ると同じ光景が出てきました。


畳の部屋、たぶんアパートで一軒家ではない。
6畳にキッチンぐらいの広さ。
かなり古くて家賃が安そう。
部屋は物がごちゃごちゃ落ちていて、散らかっている。
若い男性の部屋で、学生に見える。
場所はその飲食店の比較的近くにある。

こんな感じから始まり
この人は「お金がない」「暇もない」「ゲームはしない」「バイトしている」
まで行き着きました。

DSをなくした本人が心配していたゲームのアカウントだの
通信の設定(数カ所分)などのセキュリティ関係とは無縁でした。
この人は電源を入れてみることすら関心がないから。



一応、セキュリティ関係について、
この人の手元にある限りは平気そうということをなにげなく伝えてみました。

そして、もうひとつ。
この人はお金に困っていて、見た瞬間ふらっと盗ってしまっただけなので
ヤフオクなどに出てくる可能性が高いことも補足。
※ただし、何度か盗みをやってる感あり

カラーが変わっているので見つけやすいかもしれないし
箱が残っているので、シリアル番号で照会できるそうな。

すると、ほかの知人が

「たしかにあれ、盗難品の出品がすごく多いって聞いたよ
 結構、なくなった物がヤフオクに出てくるってケースがあるみたい」


彼らとはそれきりになってますけど、見つかったでしょうか。
今日、ふっと思い出したので書いてみました。

伊邪那岐神
人は悩み、時に道が見えず暗澹たる心持ちの中
それでも進まねばならぬときがあるだろう…
しかしなお、人は生きようとする本能が働き、
死することを選ぶより他の道を模索しようともがく
もがく苦しみこそが、生きている実感なのだろう…

その境界線の境はきわめて僅かであり
そこには意思の力で変えられる境界との境目となる部分がある

心の奥底で受け入れ、進みゆくか
衝動に身を任せてしまうか
そのときの心理に所以するもの…

本来の人の心は悩み、解決し、また進むことで心が鍛えられ
たくましくなりゆくものであったが
今の世の中はそうそう、問題が生死に関わるようなものにはならず
生きる上でのいざこざが中心になり
心の闇を増幅させていくものが多くなる…

心の闇とは何か
それは誰しもが持ちえる、そのものの最も触れられたくない部分に過ぎない
そこに焦点を当て、日の光を当てることすら痛みを覚える部分が
より拡大され現実に反映する時期に
人は狼狽するものだ…

その暗部に焦点を当てることで、より増幅する暗闇は
日の光に自ら晒し、消滅させていけるものであるだろう

古来より正体の分からぬものを人は恐れてきたように
自身の心の闇の正体とは何かをとくと見つめ切るとよい
何がその点の中心を成しているのかを自らの力で知ることができれば
現実的な対応も考えることができるのだ
恐怖に囚われたまま恐れていても、心の闇は広がるばかり…
いずれその闇に囚われてしまうだろう

心が闇に囚われてしまうと死してなお
心と言える部分は、肉の器が無くなりし後のに同様に
囚われたままとなる

心を見つめ切るは、人のとっては辛くもなる作業であるが
決して避けて通れぬものよ
自身のうちにあるは、光明もまたしかり
最も暗い部分もあるということよ
それを否定はせぬ…
人である限りは無くせぬものであり、成長しゆくための布石であるものだからだ…

ハツカネズミと人間
先日、知り合いの発達さんについて友人と話していた頃、
偶然にも自分が通勤で読んでいた本です。

スタインベックの「ハツカネズミと人間」
高校生の時以来、本棚にしまいっぱなしでしたが
なんとなく読みたくなって、手にしていたものでした。

この主人公二人のたどる運命は、寂寥感からまぬがれることはできませんが
その過程にヒントがあったのかもしれません。

ジョージとレニーという二人の男性は、お互いに気持ちを支え合って
苦しい人生を生きていく仲なのですが
レニーには知的障害がありました。
それでも、ジョージはレニーを相棒として一緒に行動していたのです。
…事件を起こし、その責任を取る瞬間まで。

昔の日本もこうだったのでは?と思うのです。
地域や社会が、弱者を守って生きていたのではないかと。

私が小学生のとき、普通クラスに入れたいと親が言えば
知的障害を持った子、車イスの子も同じ教室にいました。
日直がその子の面倒を見るという決まりがあり
授業中でもその子が教室を出て行けば、日直もいっしょに手をつないで出て行く。
でも、先生はうなずくぐらいで何も言わなかったし、
誰もいじわるしなかった時代です。

今は、ある意味、そういった懐の深さがなくなっている気がするのです。

本人にとっては、障害と理解することで
生きやすくなる場面も出てくるし、アドバイスも得られると思いますが
昔はそうしなくても、今よりは生きていきやすかったのではないかと。

日本の社会って、意外に気持ちの余裕がなくなっているのかもしれません…
厳しい世の中になっちゃったんでしょうね。
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